武士の一分
2006-12-02


藤沢周平原作・山田洋次監督作品「たとがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」に続く、3部作完結編「武士の一分」を見てきた。

僕のこの映画で感じたもの。それはやっぱり『愛』。

ともに死するをもって、心となす。
勝ちはそのなかにあり。
必死すなわち生くるなり。

三村新之丞(木村 拓哉)の愛。妻の裏切り、その相手を赦すという心。人は憎悪の果てにもきっと希望を見出す力はあると信じたい。憎しみの連鎖は、人の心のみが断ち切れるものだと思う。もしできなければ、人類は絶滅しても仕方ない。

加世(壇 れい)の愛。夫のためだけを、死を覚悟しても想う心。心と体が切り離せないから、体の裏切りというものは心の裏切りとも同化してしまう。セックスの快楽と愛とは必ずしも共存するものではないと思う。哀しいがこれは実体を持つが故の人間の限界ではないだろうか。それでも、加世の愛はひとつの愛の形には違いない。

島田藤弥(坂東 三津五郎)の愛。純粋な悪として表現されるかと思いきや、違った。最後の最後はやはり僕は加世への愛を感じた。そして詳細は描かれてはいないが、武士の一分という言葉は実はこの島田の生き方の方に当てはまるのかもしれない。新之丞のは人間の一分とでもいうべきか?

この映画でもう一つ効果的に使われていたと思う食事のシーン。幸せさの表現として新之丞と加世の食卓。それと完全に対比される鬼役の毒見シーン。(こんな職業あるんだね〜。)そしてそこで失明をしてしまうという不幸。そこには人間の普遍的な欲求である食欲で表される、生きる力と普通の中にある幸せが感じされた。

僕の時代劇のイメージというのは、偉い人が主人公なんだけど、そうでない1人の武士(今で言うと公務員?)の話というのは面白い。そこにはその時代の生活や生き方が描かれている。そして、武士という生き方を通して、日本人の心のようなものを感じ、それはおそらく現代の我々の心にも、忘れがちではあるが根付いている心のようなものではないかと思うのであった。

監督:山田 洋次
原作:藤沢 周平
脚本:山田 洋次/平松 恵美子/山本 一郎
出演:木村 拓哉、壇 れい、笹野 高史、坂東 三津五郎ほか
[映画]

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