あおげば尊し
2006-09-10


禺画像]
やっとあおげば尊しをレンタルしてきて見た。

原作を読んでしばらくたってから見たんだけど、原作を思い出すことができた。テリー伊藤が主人公としてどうなんだろうと思ったけど、意外にもしっくりきていた。外側を埋める脇役もいい感じにしっくりきてて、ドラマチックではないんだけど、心に届くもののある映画に仕上がっていたと思う。

これが日本映画なんだろうね。たんたんとした生活の中に見える(生きる)人 を写すというのでは、「東京物語」なんかもかぶるイメージがあった。

ちょっと映画の本質とは離れてしまうけど教育について。学校のシーンの中で生徒を「未完成な人間」といい、だから一方的であっても押し付けて教えるべき事があるという部分がある。

僕はこの傲慢な考え方が嫌いだ。だって人間なんて全て未完成なのに。僕はモラルは守るべきだと思う。これって生きていく上で人に尊厳をもって対等に対峙する事が大事だと思うから。

「死体」を見てはいけない理由が説明できないように、説明できない事もたくさんある。一般常識とみなされそれに従うことしかできなくなってきる大人は子供の純粋な疑問に真剣に答えるべきなんじゃないかと思う。答えないのは、自分でも分からないからで、その答えを見つけるための努力を捨ててしまっているからではないだろうか?

正解を求めすぎる風潮が教育を変えられない原因じゃないかな。「法」があるから「犯罪」が起こる。その「法」だって誰かの都合のいいように作られた正解でないものなのかもしれないのに、それを正解と思い込んでしまう。そうするように仕組まれた社会。これを変えていかなければと思う。。。と映画の話からかなりそれてしまった。

映画の話に戻って、僕が映像的に面白かったシーンが、おばあっちゃんが駅の改札に向かって歩いてくるシーン。映画を見るものにとっては、出口と書いてあり、一瞬出口に向かっているかのような錯覚に陥るんだけど、おばあちゃんは入口に向かってるんだよね。

改札って一つで2役。入口と出口の役をしている。こんな当たり前の事、意識してみると面白い。

どこから見るかで同じ物でもそれは変わるんだよね。生きる側から「生」を考えることと、死にゆく側から「生」を考えること。きっと同じものを見ているのに答えは変わってくる気がする。

今の僕は、「死」を意識する(ただし実感はしない)と、人はなぜ生まれ、何のために生きていくのだろうと考えてしまう。「死」を執着点のように考えている。果たして「死」を受け入れた時に自分は何を思い、何を成すのか今はまだ想像もできない。

ひょっとしたら、生きる意味なんてどうでもいいものなのかもしれない。生きているんだから。

監督・脚本:市川 準
出演:テリー 伊藤、薬師丸 ひろ子、加藤 武、麻生 美代子
原作:重松 清 「あおげば尊し」(新潮社刊「卒業」より)
[映画]

コメント(全4件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット